タンザニアでマサイ族の集落を訪れたら悲しくなった話
こんにちは、ハリ子です。
今回は、タンザニアでマサイ族の集落を訪れた際に感じたことについて書こうと思います。
マサイ族といえば
マサイ族の集落といえば、イッテQで珍獣ハンターとして活躍されているイモトアヤコさんが番組の企画で訪れていましたね。→リンクはこちら
イモトさんが訪れた集落と同じ集落かは分かりませんが、私たちもマサイ族の集落を訪れました。
マサイ族の集落に到着
集落に着くと、マサイ族の人々が集まってきて皆で輪になって、歌を歌ってもてなしてくれました。
首にかけているアクセサリーを貸してくれ、記念撮影を取ることができました。
そのあとは有名なマサイ族のジャンプも披露してくれました。
みんな、本当にジャンプが高いんですよ!
足にバネがついているのかと思うくらい。
きっと、身体能力が違うんでしょうね。
それから集落を案内してくれ、家の様子(実際にそこに住んでいるのかどうかは不明)を紹介してくれました。
集落の中には学校と思わしき建物もあり、中に入ると小さな子供が沢山いました。
歓迎の歌と思わしき歌を子供たちみんなで歌ってくれたのですが、
その様子が、全く楽しそうではなかったんです。
ハクナマタタ〜♪(スワヒリ語でなんとかなるさ、という意味の言葉)と歌っているのに、ハクナマタタ感が皆無😭そしてその様子を見守る先生(らしき人)。
子供たちが誰一人として笑っていなくて、きっと観光客が来たらこういう風に歌えって教え込まれているんだろうな、となんとなく察しがついてしまいました。
やはり、子供は正直ですよね。
歌や数字の読み書きなど「出し物」が終わってからは、私たちの方に寄って来て、カメラに興味津々な様子。
マサイ族に限らずタンザニアの子供たちは、カメラが大好き。
カメラで撮るのも撮られるのも好きなようで、カメラを向けると決めポーズをしてくれる子も沢山いました。
カメラを触っていた時の方が子供たちが生き生きとしていて、”出し物”の時間よりも全然私も楽しかったです。
思ったこと
「マサイ族」のブランド化
独特の文化や脅威のジャンプ力などで有名になったマサイ族。
今ではマサイ族もプライベートではスマホを使いこなし、車で「出勤」しているなんて言われたりもしていますが、多くの人が想像する「マサイ族」はブランド化しているなと感じました。
外国人が、日本人は和服を着て刀を常に持っていて、畳に正座をして生活している!と妄想を膨らませているようなものです。
実際は、そうじゃないじゃないですか。日本人だってジーンズを履くし、ベッドで寝るし、ハンバーガーだって食べる。
でも、外国人観光客が求めているのは”モダン”な日本よりも”伝統的”な日本。
だからこそ大江戸温泉物語や浅草など”江戸”を感じられる場所に外国人観光客が多いのではないでしょうか。
少し脱線してしまいましたが、日本人が今でも江戸時代のような生活をしているわけがないことと同じで、マサイ族も古い時代の暮らし方をずっと維持している訳ではないと思うんです。誰だって便利な生活をしたいから。
暮らし方を時代に合わせて変えていくことは否定しませんし、否定したところで時代の変化には抗えない部分も大きいと思います。
ただ、私たち観光客の方が自分たちの想像する「マサイ族」を求めすぎているあまり、マサイ族の実態と乖離が起きているような気がしたのです。
悲しかったこと
私が悲しかったのは、マサイ族の「これをやればいいんだろ」感がとても伝わってきたことです。
ジャンプすれば観光客が喜ぶ。
伝統衣装で歌を歌えば観光客が喜ぶ。
子供に歌を歌わせれば観光客が喜ぶ。
喜んだなら、お金ちょうだい。
喜んだなら、アクセサリー買ってよ。
言葉はわからなくても、そんな心の声が聞こえてくるようでした。
私たちの歓迎は、「こなされている」んだなと感じてしまったんです。
つまりビジネスもてなしです。
目に光のない子供達
そしてそんな大人たちの都合に付き合わされる子供たち。
本来マサイ族は遊牧をして、自由に場所を選ばずに生きていたのに、この子供たちはマサイ族であるが故にマサイ族であることに縛られて生きていくのか、と思うと少しやるせない気持ちになりました。
このような事態になったのも、マサイ族がブランド化されたことによってマサイ族の観光価値が上がり、マサイ族の村を訪れる、というだけで一つのコンテンツができるほどになったからではないかと思います。
観光地・観光資源のブランド化(例えば、ウユニ塩湖など)は観光客が集まりやすいというメリットもありますが、それによって生じる弊害も多々あります。
マサイ族の場合は弊害が子供に及んでいるような気がして、悲しくなりました。
注記
この記事には賛否両論あるかもしれませんが、これは私一個人の感想で、マサイ族の生き方を否定するつもりはありません。
ただ、歌を歌ってくれた子供達の目に光がなかったことがずっと引っかかっていたので、今回この記事を書きました。
あのマサイ族の子供達は、あのまま外の世界のことを知らずに生きていくのでしょうか。
余計なお世話かもしれませんが、子供達が今後どんな道を歩いて行くのか、気がかりです。